ゆとりを持つことを意識する

ある日の夜のこと。


妻と二人でウォーキングをしていると、前方に視覚障害者と思しき老人が杖をついてフラフラと歩いていた。



その横を通り過ぎようとした時…





「あの…」








*****************************************








趣味で自転車に乗っている人は、基本的にゆとりのある人が多い。

そうじゃなければこんなことに時間とカロリーを費やすことなど出来るはずもない。

ブログを書く自転車乗りは更にゆとりがあるはずだ。
ナニかに追われるように更新する人を除くが。






またロードバイク乗りの特徴として、道ですれ違うとお互い挨拶をすることが多い。
見ず知らずの相手なのに、だ。

某CRのように、常にロードバイクで溢れていてすれ違う度に挨拶を交わしていると首がおかしくなりそうな場合や、必死に追い込んでいてゆとりが無い時以外は、基本的に私も挨拶は交わすよう努めている。

それはある種の仲間意識からなのだろう。
初めてロードバイクを乗ってから誰に教わるわけでもなくこのような習慣が身に付いた。





しかしこの仲間意識による見知らぬ人との挨拶というのは、ロードバイクという趣味が未だ少数派であるということと、ある意味場所を特定せずに出来る趣味ということで出会う確率が低いことも起因しているんのだろう。

その証拠に、ロードバイク乗りが集まるイベントやレース会場で見知らぬ人に挨拶して回る人を見たことが無い。
居たら居たで問題だが。




昔サーフィンをしている時も、サーフポイントで出会う見知らぬサーファーにいちいち挨拶などしたこともない。
マイナーなポイントでたまたま一緒になった人と会話を交わすことがある程度だ。




以前海(伊良湖)で出会った人に、

「伊良湖では話しかけても返ってこないことが多いんですよね」

と言われたことがある。



その人は関西から来ていたが、西の海ではもっと社交的らしい。
見知らぬ人同士でも積極的に会話をするとのこと。


しかし私の知る波乗りで、何にでもとにかく首を突っ込みたがる者も居た。

見知らぬ人のクルマがスタックすれば、その場にいる仲間全員に声を掛けてクルマを押し出す。しかもやたら元気よく。
海水浴に来ている人がクルマのカギを閉じ込めてしまった時は数人でクルマを囲んでドアを開けようとしたり。
海から上がってその様子を見た時は車上荒らししているようにしか見えなかったが。

ただ、そういう人間はやはり少数派だった。


閉鎖的と言われる名古屋の地域性なのか、「話せば」「根は」イイ奴、という人は多いが、ソレを前面に押し出し社交的な雰囲気を醸し出す人間は少ない。
そういう私も決して社交的ではないのだが。




ちなみに、クルマのマナーの悪さでも名古屋は有名だが、出張で関東を走っていると特にそれを実感する。




例えば車線変更をしようとすると、関東ではウインカーを出せば多くのドライバーが減速してスペースを空けてくれる。
前を譲ると高確率でハザードランプを点灯させる。
個人的には点灯させなくていいから前に集中してくれ、と思うのだが。


しかし名古屋は逆だ。

ウインカーを出せば逆に車間を詰めて入れないようにする。
多くのドライバーが、だ。
だから名古屋は車線変更をする時にウインカーを出さないのか?とも思ってしまう程だ。

そして前を譲ってもハザードランプを点灯する人は少ない。
前に集中してくれているなら何よりなのだが。



ただこれは、関東人が心にゆとりを持っていて、名古屋人が心にゆとりが無い…ということではないように思う。

そもそも(私が知る)名古屋人というのは…



いや。止めておこう。

今回は「ゆとり」に関する記事であって、名古屋人を批判…批評する回ではない。
その回はいずれ別で設けることにする。









少し話が逸れたが、今回私が述べたいのは常に心にゆとりを持ちたい、ということだ。
後述するが、「述べる」というよりは「反省の意」を込めた備忘録なのだが。



ロードバイクに乗っていて他のロードバイク乗りを見掛けて挨拶をするという行為は、ゆとりが無いと出来ない行為だ。

いわゆるママチャリには挨拶はしないし、普段道を歩いていて見知らぬ人に挨拶もしない。
仮に道往く人々全てに挨拶などしたらむしろ通報対象者だ。

道を走っていてロードバイクを識別するゆとりが必要だし、何より挨拶を交わすという発想をもたらすゆとりが必要だ。
更にゆとりに溢れる人ならば、一瞬のすれ違いざまに機材までチェックするだろう。





そして日常生活においてもその「ゆとり」というのは重要だ。


ゆとりが無い状態では仕事もプライベートも勿論趣味も楽しむことなど出来ないし、猪突猛進で物事を進めても不測の事態に対処し難くなる。



昔からよく、

「仕事を忘れてゆっくり休む」

などと言われることがある。



的外れだ。



「仕事とプライベートを切り替える」などという的外れな言葉があるが、人間の心は一つであって、仕事で悩みを抱えていながら休日を楽しく過ごすことなど出来るはずもない。
私生活に大きな問題を抱えているならば、それを忘れて仕事に没頭することなど出来るはずもない。

逆に、どちらかが充実すれば自ずともう片方も充実させやすいし、ゆとりを持っていれば切り替えすらすら不要となるかもしれない。

ちなみに「ワークライフバランス」という言葉もあまり好きになれない。
理由を上手く説明出来ないが…




ロードバイクならば、乗っている瞬間はそれに集中しているので他のことは忘れることは出来るかもしれないが、そもそも仕事やプライベートで問題を抱えていたら乗り出す気にもなれないだろう。






いずれにしてもゆとりを持つというのは重要だ。




なので私はあえてゆとりを「意識して」持つようにしている。
可能な限りではあるが。

「ゆとり」なのに「意識が必要」で「重要」というのも言い得て妙だが、私のような凡人は無意識にゆとりを持つことが出来ないのだ。






ただ、そもそも「ゆとり」とは何なのか…?






*****************************************






ある日の夜のこと。


妻が、仕事が忙しく昼食も摂れず帰りも遅くなってしまったので、今日のウォーキングはショートコースにしたいと言ってきた日。

その日は私も筋トレ&ローラーで既に2時間弱のトレーニングを終えてからのウォーキングとなるので、結構な空腹感に襲われていた。




そしていつもより遅い時間に家を出てウォーキングをしていると、前方に視覚障害者と思しき老人が杖をついてフラフラと歩いている。



その老人に気を付けながらその横を通り過ぎようとした時、その老人が話しかけてきた。



「あの…」


「この道沿いに銭湯があるはずなんですが…」





この道は最近何度も通っているが、銭湯を見た記憶は無い。

自転車でもジョギングでもなく、我々がやっているのはウォーキングで、割と道沿いの家や店などを見ながら歩いているつもりだったので、「銭湯に見覚えが無い」ということに少々確信があった。


更に、この日はいつもより時間が遅く、妻も昼食を食べていないし私もかなりの空腹だったので、早く「ノルマ」を終わらせたかった。
要はゆとりが無かったのだ。



なので思わず即答してまった。


この道沿いで銭湯を見たことはありません、と。




しかしどこかの角にあるはずだと、その老人は言う。

せめて銭湯の名前が分かればスマホで調べるのだが、「この辺にある」としか返ってこない。



そして周囲を注意深く見てみると、なんと目の前に銭湯があるではないか。
全然目立たない、あるビルの2階に。
看板も小さいのがポツンとあるだけ。



そしてここで私のゆとりの無さが際立った。



目の前にありますよ、と伝えるに終わってしまったのだ。




そしてその老人に言わせてしまったのだ。


「そこまで案内してもらえませんか?」


と。




相手は視覚障害であろう老人だ。

しかも目の前の銭湯が分からず迷っている。



察するに、いつもは誰かと一緒に来ているのか、あるいはこの日に限って不測の事態が起きて道を見失ってしまったのだろう。

だからこそ何度も歩いていながらも気付かなかった銭湯を、この老人は知っているのだ。



にも関わらず迷っているということは、誰かの手助けが必要なのだと気付くゆとりが、本来私には必要だった。
そうすればその老人にその言葉を発させる前に私が案内をすることが出来たはずだ。



我々がこの日取り組んでいたウォーキングなど、ゆとりが生んだ最たる行為だ。
何の緊急性も無い。
疲労や空腹感はあれども、歩くゆとりがあるのでその緊迫度など言うまでも無い。

なのに困っているであろう人を黙って横切ろうとし、最小限の手助けのみで終わらせようとしていた。



最終的にはその老人の手を引き一緒に階段を登り銭湯の中まで案内した。
その老人からは感謝の言葉を何度もいただいた。

しかし感謝するのはむしろ私の方だ。

この老人が心にゆとりを持つことの必要性を改めて気付かせてくれたのだ。
そして意識しなければそれを持てない私のことも、だ。











ロードバイクに乗っている時、誰かがトラブルに見舞われていると、見知らぬロードバイク乗りが声を掛けてくれるというシーンは何度か見た。
しかしそれは先述の通りロードバイク乗りが少数派であることが一つの要因に思える。
無論、大前提に善意が立つのだが。




ただ、日々の生活においてもゆとりを持つことで見えてくる事柄も、実は身近にあるのでは…?



心の片隅に、常に何かに対処出来るだけのゆとりを意識するだけで、様々な物の見方が変わってくるのかもしれない。
本当は困っている人を見過ごしていたのかもしれない。



おかげさまで仕事には充分にゆとりを持って取り組めているので、近年大きな問題に発展したことは記憶に無い。
あったとしても性格的な問題で忘れている可能性も否めないが。


ならばそれを普段の生活にも活かさなければ。
どうも仕事以外の時間の方がゆとりが少ないように感じるのは、ここ最近の環境のせいだけではないように思う。
仕事以外の時間の方が早く過ぎる気がするせいだろうか。






とはいえ、ロードバイクは(私にとっては)まさにゆとりが生んだ趣味だ。

多少のトレーニングはしているが、あくまでも楽しむ為。
必要以上に追い込んだりはしないし、ましてや中毒でもない。


一生懸命取り組みはするものの、そこにゆとりを無くしてしまっては元も子もない。




練習ではそれなりに強度を上げてるつもりだが、いつでも「ゆとり」というマージンは残さないとならない。
そのマージンを残しつつ、強度や精度を上げて速く強くなれるように努力すればいい。


勿論レースでもゆとりは必要だ。

レースといっても、あくまでも趣味の世界。
落車で大怪我をして私生活に支障をきたしてはならない。

常にマージンを残して様々な状況変化に対処出来るように備える必要がある。
場数を踏むことも重要だ。



ゆとりを持って先頭集団に入れればどれだけ楽しいだろうか…







尚、私はそのゆとり故に、特に減量もしないし食事制限もしない。
クライマーでは無いというゆとりある言い訳もそれを助けている。



だから昨日も今日も明日もゴハンが旨い。


20161202rice.jpg



炭水化物万歳。




つまりはそういうお話し。











ブログランキングに参加しています。
よろしければ応援のクリックをお願いします。
にほんブログ村 自転車ブログ ロードバイクへ
にほんブログ村









スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

ダイちゃん、こんばんは。

いいお話でした。
このシリーズ(勝手に思っているだけ)好きです。
書かれていることと自分の考えが合う合わないでなく、こういうことを考える人、文章にする人が好きなんです。だって、その人が伝わってくるから。

昔の人は言いました。
「心ここにあらざれば、見れども見えず。」
ゆとりがあると見えてくるものが違うんですよね。

文章の内容、展開、そして構成。思わず読み込み納得し気づかされる。良い。でも、後半.....何かを期待してしまう。そして....あったーー\(^o^)/
好きです、このシリーズw

> リキさん、ありがとうございます。

リキさんからコメントいただくと、また機会があれば書こうかなと思っちゃいます(笑)
シリーズ内容的に作ろうとして作れるネタでは無いので、次回が本当に未定なんですけども。

> gottuさん、ありがとうございます。

ゴハンの大切さを再認識いただけたようで何よりです\(^o^)/
ソレが全てなのです。

ネがマジメ!

 ダイさん、こんばんは。

 最後以外は、別の人が書いてるの?

Re: ネがマジメ!

> カンパチさん、こんばんわ

「ネが」ドコロか、普段からモロ前面にマヂメさを押し出しているハズですが?
プロフィール

ダイズ

Author:ダイズ
弟に大きな背中を見せるアイツに引っ張られながらそれなりに走ったりしてる日々を綴ります

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
FC2カウンター